その理由は2つあって
- 非合理的な常識
- 暴力としての常識
今回は1だけについて考えた。
昔からなぜなぜくんだった私は
いつしか科学者になりたいという野望を抱いて(今はなんちゃって研究者)
何かの本に書いてあったが「常識を疑う」ということを
心がけている時期があった。
理由を聞いて「当然・常識・普通」という言葉には全く納得しなくなった。
当然、親にも先生にもウザがられるのだが・・・
まぁ、そんなこんなで大きくなって
今は、常識がなぜ常識なのかという意味で常識を疑ったりする
そこで、常識は「思考のショートカット」だと思うようになった
もともと常識は合理的理由を持って作られそれに従うことで
その社会において深い思考をせずに大きな効用をもたらす行動規範やマインドセット
のようなものであったのだと思う。
であっても、現在においてはショートカットが作られた時期と違う
なので現代・現状において合理的理由がなかったりする。
その合理性を失っても多くの人に受け入れられているものが「文化」
それがもっと月日が経つと「伝統」になったりもするのかなと
話はそれたが、多くの常識には現代にも「合理的」な理由がある。
一方、「合理的」でない常識もある。
なので、やはり常識は疑い
合理的であるものは思考のショートカットとして
合理的でないものはそれに代わるものを
考えていくというのが「文化を作る」ということなのかな
と思ったりもする。
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